当事者なき世界の、忘却と想起のはざまで、
最新の研究と平和博物館の取り組みから、未来のための根源的な問いにせまる。
なぜ戦争体験を
ポスト体験時代の歴史実践
継承するのか
蘭信三・小倉康嗣・今野日出晴 編
戦後七五年以上が経過し、〈あの戦争〉を体験した世代がいなくなりつつある。
近い将来やってくる〈体験者のいない世界〉で、
歴史記憶の継承はどのようにして可能なのか。
そもそも私たちは、なぜそれを継承しなければならないのか。
〈目 次〉
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序章
蘭 信三
《第1部 体験の非共有性はいかに乗り越えられるか》
―広島市立基町高校「原爆の絵」の取り組みから
小倉康嗣
―アウシュヴィッツと犠牲者ナショナリズム
田中雅一
―戦場体験の継承をめぐる葛藤と可能性
遠藤美幸
―特攻体験者はどう描かれてきたか
井上義和
森 茂起
人見佐知子
「序章」と銘打ち、あたかも軽いイントロダクションであるかのようなタイトルであるが、のっけから重量級の質量をもつこのテキストは、単なるイントロにとどまらない。多様化する継承のあり方や考え方を紹介し、衝突し合う認識や価値観を整理する。〈特権化〉〈当事者〉〈責任〉といったことばとともに本編へと招き入れるこの序章は、単なる玄関口ではなく、いわば本書の問題提起にふさわしい、巨大で異形な門である。
ある程度分厚いこの本をどこから読みはじめるかと問われれば、まずこの論考を勧めるだろう。原爆の体験者はいうまでもなく、彼らの証言を元に絵を描く高校生、それを取材して検討する研究者(著者)のすべてが〈当事者〉となっていく過程は、学術的でありながら感動的でもある。社会学とは、聞き取り調査とは、なんと面白いのだろうと思わせる論文。「原爆の絵」の図版を多数掲載する。
イスラエルの子どもたちはアウシュヴィッツへの旅という通過儀礼・地獄めぐりを経て、自らが神聖な国家・民族に属している〈勝利した生存者〉であると教育されるという。このような〈犠牲者ナショナリズム〉と、そうした排他性に抗するアウシュヴィッツ「対話と祈りセンター」の取り組みを対比させる。国家や民族間の複雑な様相とともに、前章に続いて、〈トラウマ〉〈二次受傷〉という本書に通底するテーマが展開される。
中国戦線で激しく戦った旧日本陸軍第二師団の戦友会「勇会」。本来、部外者が立ち入ることが困難な戦友会に、若い筆者は世話係として深く関わり、会の終焉までを見届けることになる。70年以上前の作戦行動で部下を死なせた元軍曹は、戦友会事務局長である元上官にいまだに複雑な想いを抱いている。老齢となった〈戦友〉たちの想いと、それを引き継ごうとする若い世代の葛藤や思惑から、継承のリアルな現場が語られる。
『永遠の0』『男たちの大和』はじめ、特攻創作作品は数多い。本論では、45年から離れれば離れるほど、創作上の技巧として時間移動やタイムスリップが駆使され、その結果として戦死者といまの我々が直接的につながるようになっていくと分析される。体験者(生き残り)の不在を克服し風化を防ぐために、創作だけがもちうる〈危険な力〉。継承の手段として存在感を増していくであろう特攻文学を読むためのリテラシーを獲得する。
当事者にとって、凄惨な体験を語るとは、書き残すとは、どういうことなのか。子どものころの体験を語りながら目の前で動揺し涙する人たちに、われわれは何を強いていて、何をすることができるのか。さらに、そのとき聞き手であるわれわれは何を受けているのか。「もっとも継承が困難な体験こそ、もっとも継承すべき体験である」という逆接に取り組む、歴史学と心理学の成果。
41年生まれで自身は戦争体験(の記憶)がない女性。彼女は長年「神戸空襲を記録する会」に関わり、そのなかで自分だけの〈戦争体験〉を積み重ねてきた。本論の著者はさらにその下の世代である75年生まれ。非体験者から非体験者へ。ここでもまた、対象と関わることでの著者自身の変化が綴られていく。〈体験〉とは自己のなかに新しい価値を創造することであるとするなら、学び知ることを通じて、体験は継承されていく。
《第2部 平和博物館の挑戦―
展示・継承・ワークショップのグローバル化》
―「私たち」の現在地を探るための一作業
福島在行
遊就館(山本晶子)
長崎原爆資料館(深谷直弘)
広島平和記念資料館(根本雅也)
第五福竜丸展示館(市田真理)
知覧特攻平和会館
大刀洗平和記念館
人吉海軍航空基地資料館(清水 亮)
ひめゆり平和祈念資料館(仲田晃子)
立命館大学国際平和ミュージアム(兼清順子)
昭和館
しょうけい館(中村江里)
東京大空襲・戦災資料センター
戦争と平和の資料館ピースあいち(木村 豊)
アクティブ・ミュージアム
「女たちの戦争と平和資料館(wam)」(木下直子)
満蒙開拓平和記念館(山本めゆ)
補論 平和博物館研究をより深く学ぶために(福島在行)
今野日出晴
この総論では〈平和博物館〉の定義およびその歴史が整理され、さらに「記憶の場」「情報発信の場」「アーカイブの場」という特徴が抽出される。それは実際に博物館を訪れる際の、「自身の中のざわつきに共振するような何かしらの手がかり/引っ掛かり」となるだろう。福島在行氏はほかに「平和博物館・戦争関係展示施設」の図表、ここ10年の膨大な「平和博物館関係研究文献リスト」も手掛け、本書の資料的価値を高からしめている。
日本の主要な平和博物館15館をとりあげ、その特徴、沿革、取り組みを紹介し、分析する。
ここに至って明示される本書の特徴とは、〈読んでおしまい〉ではないという点である。総論で「「平和博物館を見学する」という、その都度その都度の個人にとってのその経験自体に、他に代え難い独自性があるのではないか」と書かれているように、本書は、とりわけ第2部は、実際に行って、見て、考えるための導きになってほしいという意図で編まれている。
本書の副題の〈歴史実践〉とは、研究者や博物館だけが実践するものではない。読者であるわれわれひとりひとりが考え、旅をして、訪問し、見て触れるならば、そのすべてが〈歴史実践〉という主体的に「歴史する」行為になる。もちろん、読むことも歴史実践に含まれる。ただ本書では、読むことからはじまって、移動・見学・対話といったさらなる実践の時間を持つことを推奨してみたい。
たとえば東京であれば、遊就館・昭和館・しょうけい館はとても近い位置にある。そこから地下鉄で数駅のところにはwamがある。この数館をめぐれば(とりわけ遊就館とwamを見学すれば)、脳が活性化するのは間違いない。歴史実践は難しいことではなく、実に興味深い行為であることがわかるだろう。
序章と対応する、異形の門としての終章。この終章は本書にとっては出口であるが、「なぜ戦争体験を継承するのか」という問いを歴史実践するひとりひとりにとっては、入口として機能する。実際、この――編者たちの想いに比例して、当初の予定をはるかに超えて長くなった――本の最後は、このような文章で閉じられる。「私たちは、大きな地平をもった新たな経験の入り口に立っている」。