マーシャル、父の戦場
ある日本兵の日記を
めぐる歴史実践
The Marshall Islands, My Father's Battlefield
A journey of historical practice around a Japanese soldier's diary
お父さんもほんとうに元気で、遠イ遠い戦地で御奉公して居ります
交通ヲ断レシヨリ早ヤ三ヶ月
ドウアロウト生ルト云フ信念一心デアル
楽シイ時モ 苦シイ時モ
オ前達ハ 互ヒニ 信ジ合
嬉シイ事ハ 分チ合ヒ
元気デ、ホガラカニ
オイシイモノデモタベテクラシテ下サイ
今マデ 頑張ツタガ残念ダ
減食の為め全く腹が空いテタマラナイ
淋シイ頼りない日ハ幾日続クでアロウ
ドウセ一度ハ死ヌンダ
斯シテ兵ハ死ニ行ク
日記書ケナイ
最後カナ
1945年の戦争末期、マーシャル諸島では多数の日本兵が餓死した。
そのうちのひとり佐藤冨五郎は、死の直前まで小さな手帳に日記を綴り、家族宛の遺書を遺していた。
日記は生き残った戦友の手を経て、奇跡的に日本の家族の手元に戻る。
そして息子は、文字がかすれた日記の全文解読と父の慰霊を願いながら、戦後を過ごすことになる。
それから60年が経った2005年のある日、息子の運転するタクシーの後部座席にひとりの大学教授が乗り込む。
その日から、日記解読は動き始める。
さらに10年後、ドキュメンタリー映画を撮ることを夢見てマーシャルで3年を過ごした女性が、日本に帰国する。
彼女は日記に出会い、強く惹かれていく。
2016年、日記をたずさえた息子とカメラをたずさえた彼女は、仲間たちとマーシャルに旅立つ。
彼女はわずか28歳、息子は74歳になっていた。
このマーシャルへの旅がきっかけになり、三つのものが生み出された。
息子の念願であった日記の全文解読と、彼女の念願であった映画と、そのふたりを中心に多くの人が集うことになった本書と。
「戦場で死ぬとはどういうことなのか?」
「絶望的な状況下で、男は何を思い、何を書き残そうとしたのか?」
「歴史は、どのような方法で語られうるのか?」
各世代の多彩な執筆陣が集結し、〈想像力〉を駆使して戦地の死に迫る。
part1 『マーシャル、父の戦場』のための5つのキーワード
1
【冨五郎日記】
マーシャル諸島ウォッチェ環礁で餓死した日本兵・佐藤冨五郎が、死の数時間前まで綴っていた日記。2冊の手帳に分かれており、日記と家族に宛てた遺書からなる。
召集されて横須賀の海兵団に入団した1943年から約2年間にわたって書き継がれ、1945年4月25日の記述「最後カナ」が絶筆となる。冨五郎は翌日、栄養失調により死去。39歳であった。
日記は奇跡的に生き残った戦友・原田豊秋の手で仙台の家族の元に戻り、戦後は日記全文を読むことを願い続けた長男・勉が保存していた。
〈左〉日記1冊目、遺書のページ。「コレヨリ家庭覧ニシテ有リマスカラヨク読ンデ下サイ」ではじまるこの部分だけ、ほかの箇所よりも大きな文字で書かれている。小さな子どもが読むことを考えたのだろう。
〈右〉日記2冊目、1945年4月25日の絶筆。「日記書ケナイ 之ガ遺書 昭和二十年四月二十五日 最後カナ」/。
2
【マーシャル諸島共和国】
29の環礁と1200以上の島からなるミクロネシアの環礁国。
第一次大戦後に日本の統治下におかれ、アジア・太平洋戦争では約2万人の兵士が落命。戦後はアメリカの信託統治領を経て、1986年に独立。
アメリカ統治時代に度重なる核実験が行われ、とくに第五福竜丸が被爆した1954年のブラボー実験が世界的に知られている。ゴジラ誕生に着想を与え、水着のビキニの由来となったのも、この一連の核実験である。
クワジェリン環礁にはいまも米軍基地がある。また、温暖化による海面上昇で国土喪失が危惧されている国でもある。
南洋群島図〈左〉・ウォッチェ環礁図〈右〉(ともにクリックで拡大)。横須賀を出港した冨五郎は、チューク(トラック)・クワジェリンを経由してウォッチェに向かった。ウォッチェでは任務によって環礁内のいくつかの島を移動している。
3
【映画『タリナイ』】
本書の編者である大川史織が制作した映画(2018年・93分)。
冨五郎の長男である佐藤勉が、父が死んだ島に向かう旅路を追ったドキュメンタリー。
いまもマーシャルに伝わる日本語の歌やことば、各地に残る戦跡とともに、現在のマーシャルとそこで生きるマーシャルの人びとの姿が描かれる。
全編を彩る現地のシンプルで美しい歌は必聴。
本書と対をなすこの映画の成立については、第3章に詳しく描かれている。また、本書でコラムを執筆している藤岡みなみ・末松洋介・森山史子は、映画の協力者・スタッフでもある。
本作品は長崎、日本記者クラブなどでの先行上映ののち、9月29日よりアップリンク渋谷、横浜シネマリン(12/1~)で公開され、2019年も東京田端、大阪、名古屋での上映を予定している。
映画『タリナイ』より。日本語の歌を歌うマーシャルの女性たち。〈コイシイワ アナタワ イナイトワタシ サビシイワ ハナレル トオイトコロ ワタシノオモイ タタレテ〉
映画『タリナイ』のポスター
(クリックで拡大)
4
【豪華かつ多彩な執筆陣】
安細和彦(元マーシャル大使) マーシャルを舞台にした小説も書く異色の大使経験者
一ノ瀬俊也(埼玉大学教養学部教授) 兵士の日常・徴兵制などに詳しい気鋭の歴史学者
大川史織(映画監督) 本書の編者兼『タリナイ』監督。首都マジュロで3年暮らす
大林宣彦(映画作家) 戦争を描き続ける、言わずと知れた偉大な映像の魔術師
佐藤 勉(佐藤冨五郎長男) 写真の赤ちゃん。この人の生涯をかけた父への思いが、本書を成立させた
末松洋介(マーシャル語通訳) マーシャル人と言われるほどの流暢なマーシャル語を話す、現地と日本の懸け橋役
竹峰誠一郎(明星大学准教授) 20年間マーシャルに通い続ける、現地研究の第一人者
寺尾紗穂(ミュージシャン・作家) 音楽と著作の両面で「たよりないもの」たちを描く表現者
グレッグ・ドボルザーク(早稲田大学国際学術院准教授) アメリカ生まれ・マーシャル育ち・日本在住という稀有な視点の持ち主
仁平義明(星槎大学大学院教育学研究科教授) 偶然、勉さんのタクシーに乗り、日記解読に先鞭をつけた先駆者
波多野澄雄(国立公文書館アジア歴史資料センター長) 日本外交史の第一人者にして、編者と翻刻チームの上司
藤岡みなみ(タレント・エッセイスト) 『タリナイ』プロデューサーにして、縄文時代とパンダと本を愛するタレント
三上喜孝(国立歴史民俗博物館教授) 日記解読に決定的な役割を果たした、赤外線観察の達人(そして大林監督の大ファン)
水本博之(映像作家・監督) ドキュメンタリーとアニメーションを横断する若き映像作家
森山史子(日本語教師) マーシャルを知悉しマーシャル人を愛する、旅の案内人
※日記の翻刻・解読は、古代史から近現代史まで、専門を異にする若手の研究者たち10名 が結成した「金曜調査会」の1年以上にわたる分担・協力の末に完成した。
5
【舞台裏にあるもの
―映画『この空の花』と
『ラディカル・オーラル・ヒストリー』】
本書編集中に常に念頭にあったのは、「偶然は思いの強さが引き寄せる」「歴史を学ぶときに〈想像力〉は有効である」というフレーズであった。
日記が太平洋を越え、73年という時間を超えて解読されるまでには、家族の元に帰りたいという冨五郎の強い願いが作用したと思いたくなるような奇跡的な偶然が何度も起こっている。そういう偶然の連鎖を支えたのは、そこに関わった人々の他者への想像力であった。
こういった考え方は『この空の花―長岡花火物語』(大林宣彦、2012年)と『ラディカル・オーラル・ヒストリー』(保苅実、2004年)によって培われ、鍛えられた。
想像力を用いて歴史を辿ろうとする姿勢、生者と死者がシームレスに結びつく感覚、単線的な歴史観への疑問といった本書に通底するアイデアは、この2作品に拠るところが大きい。
右:保苅実『ラディカル・オーラル・ヒストリー―オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践』の新旧ふたつの本。本書のサブタイトルがこの本にあやかっているのは言うまでもない。
左:『この空の花―長岡花火物語』のパンフレット。大林宣彦監督のサイン入り。
下の原稿用紙は、編者が主催したマーシャルにおける同作品の上映会の際、大林監督から寄せられたメッセージ(本書に全文を掲載)。
part2 編者によるテキスト
特設サイトに寄せて
まもなく、マーシャル諸島ウォッチェ発―仙台亘理行き『マーシャル、父の戦場』バスは、発車いたします。
ご乗車の方は、乗車券をお買い求めの上、発車まで今しばらくお待ち下さい。
バスの運転手は、1940年代に東京の豊島区椎名町から早稲田界隈までの路線を運転していたベテラン運転手、佐藤冨五郎さんです。
乗客A:あの……ほんとにバスで太平洋を越えるの?
――ご安心ください。実績があります。
乗客B:そんな馬鹿な。燃料は?
――このバスの燃料は、ご乗車いただく方々の「想い」です。
乗客C:誰でも乗れるの?
――はい。誰でも乗れます。
乗客D:料金は?
――2400円+税です。
乗客E:安すぎない?
――はい。安いです。
乗客F:乗車券はどこで買えるの?
――本屋、amazon、楽天ショップなどからお買い求めいただけます。お急ぎの場合は、バス会社「みずき書林」に直接ご連絡されるのが一番早いかもしれません。
乗客G:途中下車できるの?
――はい。お好きな場所で、いつでもお降りください。一度ご購入いただいた乗車券は、お持ちの限り無期限パスポートです。
この嘘のような乗車券誕生の歴史は、1943年7月10日、海軍水兵長として召集された佐藤冨五郎さんが横須賀を出航したことから始まります。
それから75年後の2018年7月10日、冨五郎さんが手帳に綴った言葉は一冊の本となり、印刷所へ入稿。乗車券が正式に発行されました。
これは、誰にも届くことがなかったかもしれない(その可能性のほうが極めて高かった)乗車券です。
本書の対になるドキュメンタリー映画『タリナイ』誕生までと同じく、乗車券発行までの道のりも実にドラマチックな日々でした。
続きはバスの中で――
part3 編集者のノート
2018年2月、編集担当者から編者に送ったメールより
本書の目的意識は、「いまだ語られることの少ない、南洋(マーシャル諸島)における戦争をとらえ直す」点にある。
さらに言えば、「その歴史を知ろうとするときに、想像力は有効である」ということを示す点にある。
なぜ想像力かというと、本書の中心には外交文書や公文書ではなく、佐藤冨五郎という一兵士が遺した日記・遺書があるからである。
上級士官やジャーナリストといった発信力の強い人物ではなく、無名性・匿名性の強い一兵卒が遺した日記を読みこむことで、〈73年も前の〉〈異国で〉〈餓死した〉日本人に、可能な限り想像力を働かせてみること。通史を読んでも絶対に出てこない文章を中心にして、歴史を考えようと試みること。
本書の目的を簡単に書けば、以上となる。
*
冨五郎の死と家族への思いは、当時の日本兵の一事例に過ぎず、記述内容は客観的なものではありえない。しかし、マーシャルの日本兵の大半が餓死したことを知るとき、そしてそういう状況が各地で起こっていたことを知るとき、主観的な一事例でありながら、冨五郎の遺したものは普遍的なものになる。
ただし、とはいえ日記は極めてプライベートなものであるゆえに、個人を取り巻く当時の状況を知らなければ、一兵士の死=戦争に適切な想像力を巡らせることは難しい。
そこで本書は、日記を中心に据え、読者の想像力を補うためのいくつかの補助線をその周辺にめぐらせる構成となっている。
第一の補助線は、歴史的・社会学的な論考となる。
当時の政治・戦局の動き、日本兵の死生観、慰霊・遺骨収集、マーシャルに特有の核と環境問題といった論考は、冨五郎がどのようにしてその島に至り、どういう立場にいて、なぜ餓死するに至ったのか、その死はどういう現在的な問題のなかに含まれているのかを解説する。
第二の補助線は、冨五郎およびその日記に直接触れた人たちの〈現場の声〉を伝えるものとなる。
冨五郎が思いを馳せた相手である息子や、日記の翻刻に先鞭をつけた仁平への取材、あるいは赤外線撮影による日記解読の論考は、〈73年も前の〉〈異国で〉〈餓死した〉日本人を身近に感じるための、いまの人たちの思いと努力を明らかにする。
そして、そのような〈いまの人たち〉の中心に、編者の大川がいる。
編者としての大川の特殊性は、本書だけではなく映像作品も制作している点にある。
大川の映画作品は、上述のような本書の目的意識を共有しているわけではない。ただし、まだ20代の編者がこの本を編み、同時に映画も制作していること自体が、その関心のありかたと表現の方法そのものが、ひとつの現在進行形の文脈を形成する。
そこで、第三の、最も太い補助線として、大川の論考と映画関係者(すなわちいま現在、マーシャルに関わって生きている人たち)のテキストが加わる。
元マーシャル大使やタレント、通訳など多彩な顔触れによるテキストは、73年前の戦争は完全な形では終わっていない、ゆえに日本人とマーシャル人の関係も続いていくということを伝えるだろう。
以上を図示するなら、プライベートで主観的で未公開である、すなわち不安定な史料である冨五郎日記を、中心に据える円とする。そして三本の補助線がその円に接して三角形を形成している。三角形は安定した図形である。そのなかで円も安定し、歴史資料として定着していくだろう。
この図形全体が、「いまだ語られることの少ない、南洋(マーシャル諸島)における戦争をとらえ直す」ための模型であり、本書の構造であると考えていただきたい。
*
映画について付言しておく。
冨五郎日記を父として、マーシャルという場を母とするなら、映画作品と本書は姉妹であるといえる。ただし、姉妹の性格はまったく異なる。姉である映画は母親似であり、妹である本書は父親似である、という言い方はわかりづらいだろうか。
(産みの親はともに大川である以上、そもそもこの比喩には無理があるが)
映画はマーシャルとマーシャル人を描くことを主眼に据えているのだと思う。そこでは、冨五郎日記も含めた歴史的なものは、表現の目的ではなく、被写体のひとつに過ぎない。
錆びついた大砲も、崩れかけた建造物も、地中に埋まる電線も、慰霊祭の風景も、中心人物のように映るに違いない冨五郎の息子さえも、作者にとってはおそらく主人公ではない。主人公はマーシャルに生きる人びとであり、歴史の傷跡を全身に残したままのマーシャルという国そのものであろう。
その意味では、主人公にもっとも近いものを挙げるとすれば、おそらく彼らが歌う歌が、象徴的な主人公になりうるだろうか。
いっぽう本書に話を戻すと、先述の通り、本書は冨五郎日記を中心にして、歴史を知ることを主眼に据える。本書は「歴史の本」である。
歴史的なものを被写体としながら、あくまで〈現在のマーシャルの人と土地〉を描こうとする映画とは、その点で大きな違いがあると言えるだろう。
*
大川の映画と、本書の中心にある冨五郎日記は、ともにプライベートな手触りを持つものでありながら、その背景には日本の戦争の歴史という大きな状況が横たわっている。さらに、その歴史に影響を受けた現在の日本とマーシャルの関係がある。
私たちには、知っておいたほうが望ましい歴史と現在がある。
それを知ろうとする際に、ロジックや批評の力・知識量ではなく、想像力を中心に据えてみること。
政治や外交・通史といった大きな入口から入るのではなく、死者と私たちの関係性という小さな語りから始めてみること。
そのようなかたちで、「いまだ語られることの少ない、南洋(マーシャル諸島)における戦争をとらえ直す」という目的にアプローチしてみたい。