ここ数日、頭に引っかかっていたことがあるので、またしても『トゥレップ』の話。
この映画のなかで、マーシャル諸島の神話/昔話が語られます。
〈飛ぶ女〉の話です。
ふたつほど印象に残った話があります。
たしかこんな話でした。
〈マーシャルの飛ぶ女1〉
両親に虐げられてつらい思いをしていた娘が、あるとき木の枝に引っかかっていた鳥を助ける。するとたくさんの鳥がやって来て一枚ずつ羽根を与えて翼を作り、鳥たちは姉を連れて外洋へと飛び去る。
もうひとつは、日本統治~戦争時代のことですから比較的新しい昔話/民話といったものです。
〈マーシャルの飛ぶ女2〉
マーシャル人の女性が日本人の男に恋をする。しかし日本が戦争に負け、恋人は日本に帰ってしまう。
娘は寂しくて病になり、魂だけが日本へ飛ぶ。でも帰国した恋人は結婚していて、娘の魂はふたりの結婚する様子を見る。
娘は恋人のかわりに木の枝を折り、飛んで帰る。
枝は娘の故郷の島に落ちて育ち、「桜」と呼ばれる。
マーシャルでは知っている人も多い話だということでした。
実際、映画のなかでは現地の人が「sakura」と発音していたのが印象に残っています。
最近、別件で調べ物をしていて、これらの話とリンクするような神話がありました。
以下、『世界女神大事典』(原書房、2015年)に依拠しています。
〈日本神話のアマツオトメ〉
乙女は地上に降りて水浴びしていたところ天の羽衣を盗まれる。盗んだ男と結婚して子供をもうけるが、最後は羽衣を見つけて天に帰る。
いわゆる有名な「羽衣説話」です。
世界的に広く分布する話型とのことですが、『事典』によると、天女は本来は鳥であり、その子孫は鳥の援助のもとで地上で反映する。天女は豊穣の女神でもあり稲作・農業をつかさどり地上に冨をもたらすとされます。
〈中国の女神である精衛〉
天帝・最高神の末娘が溺死し、精衛という鳥に化身する。
精衛は海を埋めて大地を広げるために、山の木の枝や石をいくつも海に投げ入れ、大地を創造する。
〈アイルランド神話のファン〉
話が長くなるので割愛しますが、ファンは昏睡状態の英雄クー・フリンを覚醒させる恋人。ファンは「燕」を指し、燕が英雄を昏睡→覚醒へと導く話は、美しい季節の到来を説話化したものと考えられる。
なおファンは異界へと取れ戻され、クー・フリンとは二度と会うことができない。
〈アーサー王物語で有名なイズー(イゾルデ)〉
中世ドイツ語版によると、マルク王のもとに二羽の燕が飛んできて、一本の金髪を落としていく。
この金髪の持ち主がイズーであり(これまた長くなるので大幅に省略しますが)、イズーはアイルランドの大女神ブリギットと密接な接点を持つ。ブリギットは詩・医術・工芸をつかさどる。
マルクとトリスタンとイズーの顛末についてはご存じのとおり。
ええと。
あいもかわらず長いテキストですが。
マーシャルのお話との共通点を挙げると、
・女性と鳥の一体化。あるいは女性が飛翔する。
・相手の男性とは離れ離れになる。
・大地を作り出す、あるいは豊穣をもたらす。もしくは、春の到来を告げる。
といった点になるでしょうか。
(このあたりの論の進め方は、沖田瑞穂先生にインスパイアされているところが大です。ただしマーシャルは大陸部と共通する神話ルーツを持っているのかわからない南洋の島ですし、〈2〉は日本統治時代のお話です。神話学的に厳密な話をしているわけではなく、僕個人が面白がっているだけ、とお考え下さい)
『海獣の子供』『トゥレップ』に共通するテーマのひとつとして、世界と生命のフラクタル構造、女性性と豊穣、といった点がありますが、上記の各地の話も「飛ぶ女性」をモチーフとして、豊穣を語っていると思われます。
飛ぶ女性は、豊穣と繁栄をもたらします。世界を作り出すことさえあります。
でも本人は幸福になることはありません。
相手の男性と別れることは、おそらく「ひとつの生命の終わり」を意味します。
そしてその結果として桜の木が繁り、大地が生まれ、春がやってくることは、「でも生命は続く」ということを表しているのではないでしょうか。
大昔から、どこに生きていようとも、人びとは自然と自分たちの関係について同じ観想を抱き、似たような物語を語ってきたのだなと思わされます。
『トゥレップ』と『海獣の子供』は「言葉にできないこと」をめぐって旋回する物語です。前者は言葉を尽くすことで。後者は大事なことは語らないことで。
そして太古から語り継がれてきた神話や説話といったものは、言葉のみを駆使しながらも、「言葉にできないこと」を表してきたのでしょう。
もしもレヴィ=ストロースと金子みすゞが並んで『トゥレップ』を観たら、「みんなちがって――でも実はみんな一緒で――だから、みんないい」と言ったかもしれません。
やや手前味噌になりますが、マーシャルの場合は、話の誕生が比較的新しく、そこに日本とマーシャルの関係という具体的な要素が加わっているところも注目点です。
自分たちが、桜の木が、彼らの物語のなかに現れることに、僕たちは呆然とします。たしかなつながりがありながら、我々はそれを一方的に忘れ去ってしまっているのではないか。
世界中の神話と極めて近い構造を持つ話をいまも生み出し続けている、マーシャルの人びと。
言葉を用いて、渦巻・循環という構図が生み出されてきて――いまもなお生み出されていることには、なにかしら心を揺さぶるものがあります。
(先述のとおり、以上は僕の勝手な想像/妄想であり、マーシャルのことは『世界神話大事典』に載っているわけでも沖田先生の論旨でもないことは、あらためてお断りしておきます)
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