原作漫画はまだ読んでいません。
『トゥレップ』→『海獣の子供』という順番で観ました(その流れで観るのはレアかもしれません)。
ネット上の評判は、タイムラインに流れてきて目に入ったもの以外は、ほとんどチェックしていません。
そんな環境で観た者の感想です。
先に結論めいたものを書いておくと、『海獣の子供』と『トゥレップ』はあわせて観てよかったなと思える作品群でした。
『海獣の子供』のほうがメジャーなタイトルで上映館も多いので、こちらを観た人が『トゥレップ』も観ようか悩む、というのがおそらく一般的な構図だと思います。そういう意味では、より正確に書くと、
『海獣の子供』を観て何らかの意味で揺さぶられた人は、『トゥレップ』も観てみるといい。
ということになります。
(さらに先回りして要望をいえば、『海獣の子供』がディスクになるときには『トゥレップ』も同時発売、もしくはパッケージ内に収められているといいなと思います)
僕は『トゥレップ』から観たので、先にこちらの作品について。
一風変わった映画です。
『海獣の子供』からスピンオフした作品であり、ほぼ同時公開。でも上映館は違います。
ドキュメンタリータッチで描かれますが、フレームとなる物語はフィクションです。
インタビューを連ねる作風は、映画というよりは教育番組を観たような印象です。
『海獣の子供』は漫画本が登場するものの、登場する識者たちがその作品に直接言及することはなく、彼らがその作品を知っているのかどうかも描かれません。
つまりこの作品は、我々の現実と同一線上に位置づけられているのか、『海獣の子供』の世界観のなかに埋め込まれたメタ構造のドキュメントなのか、よくわからないのです。
登場人物たちは現実に存在する実名人物ですし、語っていることも現在のこの世界についてなのですが、その語りの枠組みは虚構の世界に軸足を置いています。
こういう手法は、メジャータイトルの関連アイテムとしてはかなり野心的なのではないでしょうか。
普通は『海獣の子供』だけを作ると思います。
こういうメタ的な作品を本腰を入れて作って、それをインディペンデントな上映館で同時に走らせるというのは、なかなか興味深い試みだなと思います。
そうすることで、アニメという虚構の世界が、この現実とシームレスにつながる効果があるようです。
実際にこの作品の途中からは、インタビューイの周囲を魚たちが舞い始めます。ビルや街の風景のなかに、海獣たちが動き始めます。
僕はこの作品を観たあとにそのまま街を横切って『海獣の子供』の上映館まで歩き、続けざまにアニメを観ました。あとで振り返ってみると――あたかも自分も魚たちと一緒に祭の中心に向かっているような感覚でした。
『海獣の子供』で、料理を作って浜辺で火を焚いて、みんなで話をしながら食事をするシーンがあります。
おいしそうな食事を前に、謎めいた登場人物たちが、自分の考えていることなんかをぽつぽつと喋ります。
ああこういうのいいな、と羨ましくなるシーンです。
信頼しあっている人と、ちょっと真面目に、普段はあまり口にしないような思いを語り合うというのは、なかなかよいものです。
(まあ大人になるとここにアルコールが入って、場所も静かな浜辺ではなくて喧しい居酒屋だったり、BGMに負けないように声を張り上げたりなんかして、なかなかいい感じにはならないものですが笑)
でも大人になっても、たぶんみんな、そういう静かで真面目な対話をしてみたいと思っています。
そしておそらく『トゥレップ』は、そんな大人が語り合うための補助線です。
生きてるって何なの。
言葉にできないことって何。
あなたは何者なの。
大人だってたまには、そんな大真面目な対話をしてみるべきなんだと思います。
『トゥレップ』では、そんな大人たちが、リアルに・言葉を駆使して・大真面目に登場します。研究したり考えたり、表現したりすることを生業にしているひとかどの大人たちです。
とはいえ『トゥレップ』は『海獣の子供』の訳知り顔の解説でもなければ、問いかけへの模範回答集でもありません。
作中で原作者の五十嵐大介氏が「(頭の中で決めたことを描くのではなく)描きながら考える」という趣旨の発言をしています(この作品とは無関係ですが、ある作家も長編小説を書くときの方法として、まったく同じことを言っていました)。
自分がどこに行くのかもわからないまま、身体を動かしながら、思考のプロセスそのものをかたちにしていく。
恥ずかしがっていても怖がっていてもしかたないから、僕たちもそういうふうに考えて、大真面目な対話をしてみてもいい。
あまり図式的な言い方は避けたいのですが、『海獣の子供』と『トゥレップ』は問いの連鎖を生み出す連作のように思えます。前者は5Wのすべてを問いかけ、後者はそれらの問いに接近するためのHow? を投げかけます。
それは識者だけに許された特権的な作業ではない。
受け手は、いうまでもなくひとりひとりの観客です。
(つづく)
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