(前回の続き)
つまり、肩書も部署もなしです。
これは今の日本の労働環境を見ていると、なんだかすごく良いことのように聞こえてしまう恐れもあるのですが、人によっては逆に居心地が悪いことでもあるかもしれません。少なくとも、みんながみんな適応できるシステムではないでしょう。
企画ごとにプロジェクトリーダーになれて、同時にサポート役にもスイッチできること。
基本的にはすべての業務をひとりで進行させることができること。
だからこそ、自分の得意/不得意を把握していて、人に頼ることができること。あるいは人に頼られることができること。
不安や不満(とりわけ不満)は、自分のアクションによって解消していくしかない環境であると知ること。
営業しかしないとか、編集しかできないとか、そういうセクションは、できれば取り払いたいと思っています。
なぜなら、そのほうが楽しいと思うからです。この1年間、自分ひとりでひとまずすべてのことをやってみて、その楽しさに気づきました。できるかできないかはあまり関係ありません。ただ、やってみることが苦にならない人であってほしい。
そういうメンバーが3~4人いればいいなと、夢想します。
わかりやすいイメージは、長篠の合戦でしょうか。
誰かが弾を撃っているときには、次の人は準備を終えて後ろで控えています。
その次の人は充填作業をしていて、最後の人はまさに撃ち終わって最後尾についたところです。
全員が一致協力して、そして前線に立つ役割を交換し合いながら、馬防柵を守ります。
合戦のイメージを持ち出しましたが、合戦と異なるのは、そこまで深刻な顔をしている必要はないということです。
むしろ笑って、楽しんでいきたいものです。
真剣ではあるけれど、深刻になる必要はありません。
社屋について。
これももう、社屋レスでいいかなと思っています。
というのは、いまは自宅でひとりで働いているという事情があります。
人に来てもらうにはあまりに手狭だし、他人の自宅で働くというのは、メンバーにとっても落ち着きが悪いでしょう(なにより妻が嫌がります)。
そしてノートパソコンと携帯電話とWi-Fiさえあればどこでも仕事ができる。というのもこの1年で確信したことでした。
ときにはプリンターも必要ですし、広いスペースやいくつかの文房具や梱包資材も必要になります。そういうときは、この自宅兼事務所なり、どこかのスペースなりに集まればいいことで、出版の日常的な業務に関してはどこでも行えます。
そういう意味では、ほったらかしにされても、誰が見ていなくても、自動巻きで仕事ができる=要するに仕事を楽しめるかどうかは、やはり大きいですね。
ある程度しっかりした自律心と良質なかたちの気負いは、極少人数で働くときには、とりわけ重要かなと思います。
そこから導かれるもうひとつの論点ですが、僕は〈永続する会社〉を作ろうとは思っていません。
これは先に書いた、「僕が求めているのは、仕事をしている限りずっと続く関係です」ということと矛盾しません。
みずき書林は僕と関わってくださる人たちが幸せになるため(だけの)装置であって、もしメンバーを求めるなら、考えるべきことは自分とメンバーの幸福だけです。
自分がいなくなった後も続く大きな企業に……などとは思っていません。
このかたちで働けなくなったら、働きたくなくなったら、そしてメンバー全員が同意するなら、解散しておしまいです。
組織はなくなっても、作った本はどこかで残り続けるでしょう。
とはいえ、だからこそ自分たちの年齢のことは考慮しなくてはいけません。
つまり、これは前職の経験から言えるのですが、「現状維持するためには、成長し続けないといけない」ということです。
人は例外なく、加齢とともに生産力が下がります。いま10できていることが、年齢とともに5までしかできなくなる。それを補うためには、10を行うことができるより優秀な人間を雇って、合計15の労力でその人数を養わないといけません。この10というのは、単純に仕事量・仕事時間の話でもあり、同時に時代感覚というかセンスの問題でもあります。
しかし、現実的にそういう新陳代謝を行い続けることは、難しい時代になっていくでしょう。あるいは仮にそれができたとしても、そのなかで自分の居場所や必要性は下がっていくでしょう。
となると、年齢とともに自分のなかで代謝を行っていくしかありません。
言い方を変えれば、自分が老害化するのをどう防ぐか。
まだこのことを考えるのは少し早いのですが、もしメンバーとともに歳をとることができるなら、そのこと自体を時代や状況にフィットさせることができないかと考えています。
少子高齢化のなかで、本の作り手と同時に、主要消費者も高齢化します。それをデメリットととらえるのではなく、自分たちに見合った環境として捉え直すことはできないか。
近しい年齢の3~4人のメンバーであれば、そういうことも可能なのではないかと、いまは楽観的に考えています。
このテキストは、この一月ほどの間になんとなく書き続けたものです。
「いまのところ」という留保を強調しつつ、「もしもトーク」であることに念を押しつつ、今の感情のメモということでアップしておきます。
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