資生堂ギャラリー、遠藤薫「重力と虹霓」。
長い歳月のなかで使いこまれ、繕われ、暮らしのなかで常にそこにあった布たち。
遠藤薫は、そのような古布を、工芸品としてあるいは現代美術として再解釈しています。
この布は、沖縄の普段着であった芭蕉布の端切れを、米軍基地内のバナナの繊維などで縫ってつないだものとのこと。当時の米軍の服の端切れで繕われています。
薄くて風通しの良さそうな生地に混ざって、右のグリーンの布、左側のカーキ色の長細い布は、質感がちがって肌理が細かく厚手でした。おそらくこの部分が米軍服なのだろうと思われます。
紫から黄色へ美しいグラデーションを作るのは、絹の古布に蚕の糸を合わせたものとのことです。
これらの布はすべて戦前に織られたもので、穴の開いた部分に蚕を這わせて、蚕が穴を埋めるとのこと。
会場で配られたテキストには、「その上に生きている蚕を這わせ、彼らが直接布に糸を吐き、古布の穴を修復する」とあります。蚕を「彼ら」と呼ぶのが、いいですね。
紫と黄色の布の前に立っていると、空調の風にあおられて、布が目の前にふわっと近寄ってきては、また遠ざかっていきます。そのたゆたうような動きに、おもわず鼻先を包んでもらいたくなります(もちろん、作品に手(や鼻)は触れませんでしたが)。
肌ざわりとか匂いとか、そういうことも感じてみたくなります。
たくさんの布は使い込まれて、穴が開いて、それをまた繕って補われます。
長い時間の堆積を感じます。
その時間性のなかには、沖縄や戦争の歴史が畳み込まれ、女性性が含まれています。
そのようなたくさんの布を観ながら、これは編集だと思いました。
無名の女性たちや多くの蚕たち(!)が編集者となって、一枚の布のなかに同居しています。
ことばを集めて編むということが書籍の編集だとするなら、あるいは音と画を集めて編むということが映像の編集だとするなら、ここでは布と糸を介して、歴史や女性性が集められ、編まれています。
歴史が織られています。
ここで僕が思い起こしたのは、日本が地中に埋めた電線を掘りだしては造花の芯にしている、マーシャル諸島ウォッチェの女性たちの手仕事でした。
布と造花という違いはあれど、ここでは過去の痕跡が繋ぎあわされ、編まれ織られて、暮らしの中で使われ愛でられるものとして再生されています。
遠藤薫さんに『タリナイ』のそのシーンを観ていただき、感想をうかがってみたいと思いました。
遠藤さんは今回の展示によせたテキストのなかで、
「そこには必然的に、戦争や労働、過去の人たちの生活の痕跡が残っています」
あるいは、
「もうこの世にいなくなった人たちの、痛切なまでの布たちとの関わりの中に、再び“虹霓”が立ち現れることを願って」
と書いています。
擦り切れた部分、繕った箇所、ほころびた糸、繋がりあった布。
細部に目を凝らすと、そういった不完全さにこそ、遠い誰かの手元の動きが見えてきます。
歴史を表現するときに、こういうかたちもあるのですね。
すぐそばにある道具が、過去や他者につながっている。手元や足元の歴史性に気づかせてくれる展示でした。
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