諏訪敦さんの12月からの個展のタイトルは『眼窩裏の火事』と題されています。
いまのところ、府中市美術館公式のアップしている短いテキストしか手掛かりがなく、この題に込められた意図なり意志なりは、美術家本人からも美術館からも発されていません。
よって以下は完全な妄想・推測で書きます。
『眼窩裏の火事』とはおそらく、「対岸の火事」に対置される造語ではないかと思われます。
「対岸の火事」とはいうまでもなく、川向こうの火事なので、当人にとっては悲惨・大混乱であっとしても、こっちで見ている自分には何の影響もなく、痛くもかゆくもない、という意味です。
では眼窩裏に映る火事とはどういうものなのか。
それはおそろしく至近距離で燃えている火事です。同時に、目を閉じたときだけ目蓋に映じるものでもあるでしょう。
目を開けているときには見えないで、目を閉じたときだけ、異様な迫力で眼前で燃える炎。
その熱は目を焼くかもしれず、その光は目を潰すかもしれません。
対岸の火事のように安全なところから見るのではなく、対象のギリギリまで接近して光景を直視する。それから一度目を閉じる。眼窩裏の光景を画布に写す。
それは諏訪敦という美術家が実践し、格闘してきた、核心となる制作過程なのだと思います。
「実際に経験していない事象に対して、〈見る〉という行為の意味はどこまで拡張可能であるのか。あるいは経験者が不在の状況下で、どこまで真実ににじり寄れるのか。こういった諸問題について私たちは考え続える運命にあります」(『なぜ戦争をえがくのか』45頁)
「取材対象が不在であるなら、そもそも観察すること自体が不可能なわけですが、様々な取材行為や他人の経験を援用することで複合的に得られた認識は、〈見る〉という概念の中に包括し得るのか。〈見る〉という概念そのものをどこまで拡張できるのかというテーマは、私の課題としてあり続けています」(同、65頁)
諏訪さんのインタビュー本で繰り返される問題意識です。
もうそこにはいない他者という火の元を、遠い対岸からではなく、眼窩裏の至近に映して見ること。
山本美香、大野一雄、父親、祖母……そのほか多くの、もうそこにはいない人びとの精緻な絵画。
僕にとって諏訪敦さんは「あの世とこの世をまたいで仰臥する身体を描く画家」です。
その身体に、もはや何人(なんぴと)にもとりだすことができない記憶や経験や思いが詰まっているとするなら――諏訪敦の圧倒的な画力と取材力をもってしても、それを確信をもって全き姿で捉え切ることはもはやできません――それは死という側面を描くことでしか示唆できないものなのかもしれません。
僕が死んだときに、僕の記憶や経験や思いはどこにいくのでしょうか。
そう考えると、「対岸」にはまた別の意味も生まれてきそうです。
こちらではなく、あちらに行ってしまった他者という火の元を、諏訪敦さんは自らの眼窩裏に映しとり、画布に映しとります。
われわれは画を前にして、ゆっくりと目を閉じて己の眼窩裏を見つめてみる。もしかしたらそれが、推奨される諏訪さんの画の見方なのかもしれません。
12月の個展では新作も公開されると聞いています。
それは〈眼窩裏の火事〉と題されたものなのでしょうか、あるいは〈Yorishiro〉を囲む鬼火のように、火や光が描かれているものなのでしょうか。
会期中に府中を訪れることは、いまの僕のひとつの目標でもあります。
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