戦争社会学研究会のジャーナル第4巻、「軍事研究と大学とわたしたち」の情報をアップしました。
オンラインショップでの予約も開始です。
巻頭の特集では、3本の発表を掲載。
「軍事研究とわたしたち」井野瀬久美惠
「アメリカとデュアル・ユース」喜多千草
「戦後民主主義と原子力研究開発体制」山本昭宏
これに石原俊・伊藤公雄・荻野昌弘の3氏がコメントをして、討論を行っています。
大学が軍事研究を行うことの是非が、いま議論されています。
とはいえ是/非とストレートに2分割できるほど、ことは単純ではありません。
米ソによる人工衛星の開発競争は、ようするに大陸間弾道弾の技術獲得戦だったことは有名です。
コンピューターの開発が暗号解読など戦争と深く結びついていたのも知られた話です。
この特集のなかでは、「人間の声はどの程度の騒音のなかで、どのレベルまでディストーションを起こしても聞き取れるか」という音声学の研究が、戦車や飛行機の中でヘルメットをかぶり、爆音のなかで通信するための技術に応用される、という話が紹介されています。
井野瀬先生の発言のとおり、「軍事研究は軍服を着ていない」のです。
喜多先生の以下の発言などは、いまの状況とも重ね合わせてしまいます。
「アメリカは軍事研究に予算を潤沢に与えているわけですが、その研究成果が公開されて敵国にも行ってしまったのでは意味がないわけです。そうなりますと、技術が敵国側に渡らない、つまり冷戦時代であれば、西側から東側にその開発した技術が移転されないという、貿易上の安全保障というものを組み合わせることになります」
技術と情報を占有することは、国家間の争い、あるいは国家権力の対国民に対するマウンティングの常道ですが、いうまでもなくそれは融和や理解ではなく、対立と分断を生みます。
いまの世界の為政者の顔ぶれをみていると、そういうことを平気でやりそうな人たちしかいなくて、慄然というか不安な気持ちにもさせられます。
本書は「戦争社会学」ですが、これは言い換えれば「究極の非常時の社会学」でもあります。
いまは戦争状態ではありませんが、社会が非常時であることにおいて共通しています。
原稿を読んでいると、社会学や歴史学がビビッドに〈いま〉と関わっているなと感じられます。
本を読みながら、背中のすぐうしろに世界を感じます。
あるいは社会を見ながら、肩のあたりに人文学が息づいているのを知ります。
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